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CDレビュー:『Mujika Easel/海辺より』

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Mujika Easel/海辺より


【※前作に引き続き、Mujika Easelのアルバムのレビューを書いたので、ここに掲載したいと思います!!】


Mujika Easelの2ndアルバム、『海辺より』を聴いて、僕がまず一番最初に思ったのは、「あ、これ、わかりやすくなってる!」ということでした。前作『Love & Realism』の「Foolish Woman」みたいな曲にあったシンガーソングライター路線をさらに押し出しているというか、そこだけ強調しているというか、まるでMujika EaselというバンドのボーカリストであるMujika Easelが、バンドの空き時間にこつこつ録音したものをソロアルバムとしてリリースしている、それくらいの一極集中性、ジャンル音楽感というものを感じました。まるで映画のサウンドトラックというか、おとぎ話を音楽化したストーリーアルバム、コンセプトアルバムというか、そういう昔のプログレロックバンドや、現代のドリームシアターみたいなプログレメタルバンドの作品を聴いているみたいな感覚に陥りました。うん、このアルバムは絶対にコンセプトアルバムだと思います!
もっともコンセプトアルバムといっても、音楽をやっているのがMujika Easelなので、全体的な音楽の感触、感想としては、やっぱりああ、これはMujika Easelの音楽だなあ、というものなのですが、それが1つの均一的な何かしらのコンセプトなり、テーマなりで1つのパッケージの中に封印されているという感じがあるので、それによって前作にはなかった統一感なり、1つの側面だけが強調されているような感じがして、コントロールされているアルバム、CD1枚1曲みたいなアルバムみたいな感じがしているのだと思います。なんというかシガーロスのヨンシーのソロとか、ラブ&ロケッツの『Sweet L.A.』みたいな、そういう○○の才能がある人が、ちょっといろんなことに手を出しつつも、結局巡り巡って同じことをしていたみたいな、そういう雰囲気のするアルバムです。

おそらく、このアルバムのコンセプトというのは、手紙とか、そういうものの感じに近いのだと思います。というのも、まずこのアルバムはCDが手紙の封筒みたいなものに入れられた仕様の装丁になっていて、その封を切って、代わりにビデオレターならぬCDレターを聴くみたいな感じが、たぶんそういうコンセプトを意味しているのだと思います。タイトルも『海辺より』というふうになっているので、たぶん海辺さんという人か、海の海辺か、どちらからこのアルバムをお送りしますというニュアンスがあるのだと思います。そしてその手紙という、人から人へ直接渡すもの、個人的な通信手段みたいな程で、これまで通りのMujika Easelの音楽を伝えてみるということが、このアルバムの一大コンセプトなのではないでしょうか??最初はこう、海辺を舞台にしたストーリーものなのか?とか、そんなエイリアン・・・『深海からの物体X』みたいな・・ああいうディストピアSF(深海~はそんな映画が堂々と製作されてるこの世界がディストピアみたいなそういう気持ちにさせてくれるすばらしい作品でした)的な荒廃感、モノクロ全面一色感を感じていたのですが、どうもそういうわかりやすいようなわかりにくいような感じではなかったようです。一応波の音のフィールドレコーディングが延々聴こえる「Y.」という曲もあるので、コンセプトに海辺より、というものを強く意識されていることは間違いないのですが、どこかこれは情景的というか、そういう手紙感をより一層聴き手に意識させるための演出なのかな、という気がします。メッセージ・イン・ア・ボトルみたいな、ジャッキー・チェンのわりとラブストーリー主軸の映画でもメインに使われていた、ああいう波をたゆたって漂着していくる、そういうものの感じもかもし出したいのだと思います。

ただ、そのようにコンセプト的なものを設定することで、このアルバムが若干前作よりもスケールの小さい、こじんまりとしたものに聴こえてしまうことも事実です。というのも、上にあげた「Y.」(今思い出したんですがこの曲は別にスピッツのカバーではないです・・)という波の音がただただ聴こえてくるだけの曲や、Mujika Easelの朴訥とした語りで始まる「Prelude」なども、あくまでアルバムを1枚1曲として捉えて、そのうちの楽章的なものとして聴くことでようやく身にしみるような曲なので、どうも1曲1曲の破壊力というか、そういう点では前作に劣ってしまうところがあるように思います。曲というよりは受け手の印象度に差が出るというか、そういう構成のアルバムになってしまっていることは否めないし、そこはこういうコンセプトアルバムに付きものの、おなじみの弱点をこのアルバムもしっかり持っている、という感じだと思います。アルバムを丸々1枚1曲として聴くことでようやくよさがわかるアルバムなので、たとえば普通のいろんな曲が順序で並んでいるようなアルバムを聴いているときの、「この曲がいい!」みたいな、パッと頭の中で今聴いている音をピックアップして、そこだけ(曲という単位で)リピートする、といった作業がしづらいという問題も挙げられます。これは僕が高校のときのエピソードなのですが、その当時いつも繰り返し聴いていたドリームシアターの『メトロポリス 2000』というアルバムの、一番自分が感動するところが後で聴こうと思っても全くどの曲かわからない、ということがしょっちゅうありました。結局どの曲に感動したのかはわからなくなったままドリムシも聴かなくなり、今やCDも全部売り払ってしまったのですが、なんかそういう、1曲1曲が・・という感じがないのが、このアルバムのなんともおしいところだと思います。
もちろん1曲1曲が・・な曲もあるのですが、そういう曲の合間に先のアルバムに統一感を持たせるための演出が挟まってしまうために、そういう曲も全体の中の部品になってしまって、なんだかYoutubeに上がってるその曲だけ聴くのがいい、という感じになってしまうのです。

また、これは僕が勝手に思っていることなのですが、基本的に1曲1曲がモノスゴいクオリティのMujika Easelがこのように、いきなりアルバム全体でどう、という視点にたって、オーケストラの指揮する人みたいな感じでああだこうだやる、というのがまた、僕が上のほうで書いた「バンドのボーカルのソロ活動みたい。」というような感覚の原因になっていて、1曲1曲でそれぞれ、その曲の中に独自の世界を作り上げるというよりは、なせばなる、音を出せば鳴るみたいな感覚で演奏を放出していたMujika Easelが、このように曲ごとではなく、あくまでアルバム全体という視点には立ってはいるけども、全体の構造や世界を考えてやってしまったことによって、このような狭い、本当にボトルに入りそうな大きさの、音楽世界が出来上がってしまったのではないでしょうか。
もっとも狭いとか小さいというのは、手紙の本質だと思います。本質というと偉そうですが、なんかこう、僕の中にある手紙を読むというイメージには、大きくてB6くらいの紙が折りたたまれているものが紙の中に入っていて、それを軍に入っている男が寝転がって広げて読むみたいな、韓国映画のそれがあって、このアルバムをボトルに入ってどこかの海辺から漂着してきたカセットテープなのだとすれば、それくらいのイメージの広がらなさで正解なのかな、という気もしないでもないです。海から来たものには、海から来たんだというイメージ以上に一番強いイメージが現れないというか、海から来てる時点でそれくらいの衝撃がまずあるので、それを越える衝撃はどれだけその中の手紙を読んでも心に残らないというか、それくらいの『海辺より』というタイトルが持つアクの強さが、このアルバムを支配してしまっているようにも感じます。

実際僕はこのアルバムを最初から最後まで聴いて、前作と同じような感動は得られませんでした。このアルバムにあるのは前作とはまた違ったタイプの感動(ここでいう感動とは「音楽いいな!」という感動であって、別になだそうそうみたいな話ではない)です。前作にあった自由奔放さや、天真爛漫な音楽が放出されてる感じがここにはなく、なんだかちゃんと何を流すか考えたものを完成させたあとで海に流したような、メッセージを流すことにモロモロの、やむにやまれぬ事情があったのではないかと察してしまえるくらいの、そういう曇天の海辺、漂着物まみれより、みたいな感覚があります。けれどもアルバムとしてじゃあどっちが好きか、聴きやすいかといわれると、・・・・・僕は実は1stアルバムよりも、この2ndアルバムのほうが圧倒的に聴きやすくて、単純に聴いてていいなあと思えるので好きだったりします(笑)1stは気分が落ち込んでいるときとか、物事に集中したいときとか、そういうときに正座して、シャキッとしないと聴けないようなマジ感があるのですが、こちらのアルバムはそれを維持しつつも、どこかくだけたというか、手紙というそこには本人はいないよ形式からの、見てないんだしあぐらでもいいかなくらいの気を抜ける感じがあって、その音楽の髣髴とさせるどこか冷たい地方の大昔の無声映画、戦場のピアニストのポスターの崩れた瓦礫のいっぱい散らばってる光景とか、そういう雰囲気を自分が好きだということも相まって、頭の中で勝手にストーリーを作って、そのサントラとしてバックで延々流すというスタイルで聴けるという点がいいなと思っています。きっと作られた動機はシリアスなアルバムなんだけど、僕はシリアスには受けとめなくてもいいんじゃないかみたいな、そういう、手紙だからいいや感がすごいあります。この手紙だからいいや感がまた、「ソロ活動してる感じ」に言い換えることができる言葉なのだと思います。
いずれにせよ、なんだか最後のほうで思いっきり安っぽいレビューになってしまった気もしないでもないですが、Mujika Easelをはじめて聴く、という方にはかえってオススメの、入門にはもってこい!のアルバムです。入門というか、聴きたい人はまずこれを聴いてくださいみたいなサンプル音源というか、とにかくそういうふうに、あぐらをかいても聴けるアルバムです。だからこう、これまでのMujika Easelのアルバムを聴くことが、色塗りたての絵を紙ごと渡される感じだとすれば、これはちゃんと乾いて、こっちの手で絵が汚れないようにちゃんとコーティングして額に入れたものを、なんとなればコピーを渡してくれているといったような趣。さながらどこかの海辺でバカンス中のMujika Easelからのお便りというか、黒ヤギさんみたいに食べてもOKみたいな作品になっていると思います!


※このアルバムもやっぱり、装丁がいい!!ここまで装丁にまでこだわられたら、そりゃ作品全体のコンセプトもわかろうというもの。そういうパッケージの手軽感もまた手軽に聴ける要因なのかもしれない・・坂本龍一のデジパックのCDみたいに経年劣化で色がきちゃなくならないことだけを祈ります!!タバコ吸わないから多分大丈夫!!


※現在bandcampのダウンロード販売でアルバム全部で1000円で購入できるようです!!
(なおアルバムは全8曲46分という、いたって普通のサイズのほどよい長さのアルバムです。)

Bandcamp

なおitunesでは取り扱いがないようです!!


※CDは以下のところで買えます!!

Shop ※『海辺より』の手紙状紙ジャケ装丁画像がみれます!!
Amazon
HMV
discunion ※現在在庫なしだそうです!!

他のところでも多分買えます!!
前なんばと梅田のタワレコにおいているのは見つけました!!




西田辺レコード会 会長 つかまるところ
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CDレビュー: 『Mujika Easel/Love & Realism』

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Mujika Easel/Love & Realism


どんなミュージシャンでも、たいてい1stアルバムの出来というものは非常によいものです。デヴィッド・ボウイとかボブ・ディランとか、逆に1stアルバムだけなんのこっちゃわからない、混乱の塊のようなものになってしまっている人も中にはいるにはいますが、どうもたいていのミュージシャンの人というのは1stアルバムを出す前に、出す前もずっと音楽のことを勉強したり真剣に活動したりしていて、その延長線上として満を持してアルバムを録音するようで、よく「1stアルバムはそれまでの人生の蓄積、あとのアルバムはただそのアルバムごとの間の時間だけの内容しかないから1曲を作るのに時間のかかる人ほどアルバムの間隔が狭くなればなるだけつまらなくなる。」と言われるように、まあたいていの場合、1stアルバムというのは「結構いい」か「その時点でどうしようもない」かの2つに分かれるものだと考えていいと思います。というかそういうことにしないとこの文章を書き進められないんだ!!


今回このMujika EaselのCDレビューを書くにあたって、僕はいったいどういうところからこのアルバムを掘り下げていったらいいものかたいへん悩みました。
ふだんアマゾンなんかにレビューを投稿するときは音楽なんてまったく聴かずに、あるときはもう何年も前に手持ちのCDを売ってしまったようなアルバム(The Shiningの「True Skies」とかね!!)をささーっと、キーボードでこんなもんだろとかたかた叩いてはい投稿、クリックぽちぽちみたいな感じで終わらせてしまうことがたいへん多いのですが、このアルバムについては一切そういう手法が通用しないという感じがあって、もうほんとに生まれてはじめてかもしれないくらいの経験なのですが、なんと散歩しながらメモ帳に気付いた点を書き込みながらレビューを作っていくという、前代未聞の労力を割かなくてはこのアルバムのことは皆目見当がつかない、という感じになってしまっていました。
普段こういうジャンルの音楽をあまり聴かないということもあるのですが、なんといってもこう、このMujika Easelには「こういうジャンル」といった中でもさらに異端な、なんともこう記憶にとどめてそれを分解しながらテキトーにキーボードをカチャカチャ叩いていくというような感じではとてもレビューなんて書けないだろうハードルの高さ、音楽の難しさのようなものがあったのです。それで僕のメモ帳はいろんな言葉で埋め尽くされていきつつも、ちっとも本質そのものはつかめないという、なんとも情けない状態でだんだんと真っ黒になっていきました。


しかしこの「Love & Realism」を100回くらい聴いたときのことでしょうか。(まあそんなに聴いてないんですけど、頭の中で思い出したりする回数も含めるとそれくらいいくんじゃないかと・・)唐突に、それまで頭をかかえてうーんうーん言っていたのがまるでうそだったかのように、ほんとびっくりするくらい唐突に、一気にああそうか、別にこれジャンルがどうとかいう音楽じゃないんだ、ということが判明したのです。
この「ジャンルがどうとかいう感じじゃないんだ。」感というのはものすごく説明が難しい感覚なのですが、同時にこのアルバムを1回でも聴けばたちどころにわかるくらい簡単に音楽の隅から隅までいきわたっている感覚で、1曲目のイントロのピアノからもうすでに、そういう音楽が始まっているなということが、そういう感覚の耳で聞いたらたちどころにわかるようになっています。しかし一方でジャンルとかそういう感じの音楽ではないといいつつも、この音楽がものすごく外に開かれていて、同時に内に篭りまくってもいて、両者のバランスの中であっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返してのたくりまわっているような生命感を感じさせるのは、これぞまさしく「1stアルバム感」、この文章の最初のほうに書いた、Mujika Easelの「それまでの人生の蓄積」の爆発に他ならないからだと思いました。

そう!Mujika Easelは別に、ジャンルのある音楽をやっていないというだけで、別段何か特定の音楽のジャンルのミュージシャンに限定されるような音楽性を持っているわけでもないし、そういう界隈特有のファッションセンス的なオシャレ感を演出したがっているわけでもなかったのです。Mujika Easelというのはただただここに録音されている音の響きの1つ1つのことで、それ以上でもそれ以下でもなく、本当にどこまでもびっくりするくらい純粋にただそれだけ、ただそれだけ十段みたいな感じで、おそろしいくらい純粋無垢な音楽だったのです。


もちろん純粋無垢な音楽と一口にいったところで、別にそれは聴後感がクリスタルガイザーがぶ飲みしたあと並みたいな感じだとか、そういうことではありません。なんかこう、僕は素人なので楽器のことは全然わかりませんが、ピアノの演奏もこうぐいぐい心に迫ってくるものがあるのでたぶんうまいんだろうし、歌も同じく綺麗な声だなと思うことがあるのでたぶんうまいんだろうと思うのです。
こういうボケボケな脳みそで音楽聴いてるからたぶん感想が「別にジャンルジャンルしてないだけで、普通にいい音楽」みたいな無意味なものになってしまうのだとも思いますが、どうやらMujika Easelという人はちゃんと発声の勉強とか、楽器の演奏の勉強とかも1つ1つちゃんとこなした上で、その上で決められた(or作った)音楽を演奏する・歌うというよりは、自分のフレーズ(ある種の手癖的な一定の決められた動作の感覚と間合い)を自分で弾いて自分で歌うという、本当に技術があって初めて出来るとともに、おそらくそれをするための技術を習得していく際に技術に淘汰されてごっちゃになって消えてしまうのではないかと思えるようなもろい本能的、先天的な感覚でもって、自分の脳の中にあるそういう音楽というよりはフレーズ、手の動きや声帯の動かし方というようなものを録音して音楽の形に作り上げたのではないか、というふうに思うのです。
おそらくこのアルバムを聴くときに多くの人が感じるであろうどことなく即興っぽいところとか、無意識っぽいところというのは、そういうのが如実に現れたところなのかなと思います。反対に「Foolish Woman」など、あきらかに曲を意識して作られた曲の中にはそういうものはあまり感じられない反面、どこかそういう歌を歌っている歌手になりきって遊ぼうとしているかのようなMujika Easelの姿が垣間見られて、なんだかそれはそれでおもしろい、動機的には変わらないものがあるんだろうなというふうに感じます。

Mujika Easelの音楽が「別にジャンルジャンルしていない音楽」だとわかったときに、もう1つ気がついたのは、たとえ音楽の演奏者がそういう音楽を目指していたり体現できたりしていたとしても、できた音楽はその演奏者の選んだ楽器や音の感じなどによってファースト・インプレッションは特定のジャンルのかたちで伝わらざるを得ないので、どうあがいても第一印象や、その演奏者がスタイルをかえない限りはそれ以降ずっとその人の印象は、ある特定のジャンルの中に納まってしまうということです。
よく考えればMujika Easelは「ジャンルジャンルしてない」と形容したものの、同じようにへヴィメタなのにフォークソングをデス声にしたような歌しか歌えないようなバンドや、現代音楽的な感性の持ち主なのに表現はすべてSSW的な領域にしか落とし込めないような人はたくさんいます。それは演奏力がなくて、自分のイメージしている音楽を表現できないからこういうかたちになった、という意味ではなくて、本当は○○のような音楽をしているのに、自分は××のような音楽をしていると思っている、的なことです。そしてまた、本当は○○のような音楽をしたいけど、それを表現する手段が××という音楽しかないから、(それが一番近いので)××のような音楽をしている、という感じの人もいます。Mujika Easelはおそらく圧倒的に後者の部類に属するミュージシャンなのではないでしょうか。

そう、この「Love & Realism」を聴けば聴くほど、深く響くピアノが、旋律やほかの雰囲気彩り楽器が、一瞬、ふっとMujika Easelのボーカルとは全然関係ないところで、自分勝手に鳴っているかのような錯覚を覚えるときがあります。Mujika Easelの音楽と楽器との関係が乖離する瞬間というか、そういうものがあるのです。僕はここからMujika Easelは本当はこんな音楽をしたがってるのにできないんだ!!みたいな、AKBのファンみたいなあほあほ発言をするつもりはありませんが(というかこの文章全部僕の妄想だし・・)そういう観点からこのアルバムを聴いていくと、そういうMujika Easelの思っている音楽と実際の演奏されてる楽器や歌との間の距離の乖離というものが感じられて、ついにはそこに70年代の初期パンクスの演奏力とイメージが乖離しまくっていて取り返しがつかないぜ、みたいなパンク的なものさえ感じられてきます。そのパンク的な勢いが、きっと上述した「1stアルバム感」というものの形成にも付与している感じがしないでもないですが、なんか聴いててそういう、パンクのアルバムだなと思う瞬間も時々あるのです。

ではそういうジャンルジャンルしていない、Mujika Easelの「Love & Realism」とはいったいどういう音楽なのでしょうか。
一見旋律があるようで旋律がなく、歌があるようで歌がない。打ち込みのエレクトロニカを人力でやっているような趣があるとともに、クラシックの室内楽の独奏を隣の部屋で聴いているかのような感覚にもなります。トム・ウェイツの1stアルバム1曲目に近いものを感じるときもあれば、Aphex Twinの『Druqks』に近い冷たさを感じることもあります。ビョークにもスティーナ・ノッテルダムにも似てないと思いますがどことなくマヘル・シャヘル・ハシュ・バズや工藤冬里周辺を彷彿とさせる瞬間もあります(工藤礼子『夜の稲』はこれの対極か同じようなところにあるアルバムだと思います)戦時中のナチス社交界で流れていたかのような哀愁ただようワルツを聴いているような感じもするし、「ふるさと」ばりの童謡を聴いているかのような感じになるときも、ギターのかわりにピアノに持ち替えた女性アシッド・フォークシンガーのアルバムを聴いているような感じもします。ゑでぃまあこんの『あおいあしおと』や一部メンボーズ、二階堂和美とまではいかないけどそこらへんに近い声や音の質感を得ることができます。どちらかというとカラーの世界という感じがすごくして、澄んだ空気の透明感や、初夏の早朝のさんさんと太陽のふりそそぐ感じというものがあります。歌声の風通しのよさにはなんだかJ-POPの最末端を聴いてるような感じにもなるし、フランスのセルジュ・ゲンズブール的なものに耳をかしているような感じがします。全体的に平成というよりは昭和か90年代初頭を感じる音楽で、夜眠る前よりは朝起きるために聴きたくなるようなぴりっとした緊張感があります。クラシックでもなければジャズでもロックでもなんでもないけど個人的にはパンクっぽいものを一番感じます。バッド・レリジョンのボーカルの人が作ったアコギ1本のカントリーカバーアルバムのジャケットを見たときにイメージした音の感じと微妙に近いようなことをやっています。(ちなみにそのアルバムはちゃんと聴いたら機械加工されまくった人工糞カントリー音がゴミみたいにウザい大駄作で、バッド・レリジョンを聴かなくなるきっかけとなった作品です)XTCのアンディ・パートリッジが性懲りもなく出し続けるXTCの未発表スタジオデモ音源集で聴ける『Skylarking』のアウトテイク集のような風情もあります。ラグタイムやロカビリー、カントリーにブルーグラスの要素も感じないでもありません。

Mujika Easelの音楽はそのような音楽です。
つまり聴く人のそれまでの音楽経験によってどうとでもその人それぞれのものの感じ方で形容詞を変えられる、それだけ明確に「ギターがカッコいい」とか、「ピアノのへろへろな弾き方が最高」とかいう言葉では終わらせられない、そういう楽器発ジャンル経由の音ではない、ということです。
まず楽器よりも何よりも先に動作とかそういうものがあって、それが楽器を通じて音になって耳に届いてくる。その音1つ1つの音色や音響がそれぞれ1曲としてCDのトラック分けをしていいくらいまとまっているようでブッ散らかっている、そういう自由で色彩豊かな音楽です。もしかしたらMujika Easelはよくいう「共感覚」の持ち主かもしれません。いや、たぶんそうだ!!そうなんだ!!だから聴き手によってその音の1つ1つの響きでもうジャンルが違うし、だからそれをまとまった曲や音楽の形として伝えられると形容詞がみつからなくて誌的な言葉でようするに「やられた!」という文章をそれっぽく書くか、何を書いていいかまったくわからないからとりあえずオシャンティー文章の最後にそっと「あなたの日常にMujika Easel。」的なことを書くしかなくなってしまう。それくらい1つのまとまった音楽だろとたかを括って挑むと大怪我をする音楽です。音楽というよりは仕草に近いものなのかもしれません。

たぶんコードで音楽を作ってる人や、録音がどうこうとかボーカルがどうこうとかいう人は、きっとこの人のようなかたちでは音楽に向き合えないと思います。もはや録音されたもの、演奏され、音として野に放たれた音としての音楽が好きな人では、このMujika Easelのような、音よりも前、くらいの段階から音楽をはじめているような音楽にはなかなか到達できないことかと思います。ヘタウマという言葉がありますが、ようはあのウマ味というのは、その演奏者の腕の動作がそういう音に直結しているというのが根本の原因にあります。ダイナソーJrのギターの人の音は極論を言うとダイナソーJrのギターの人の体の動きなのです。そしてMujika Easelの場合は、その動きと音との関係を自分の中で完全に掌握してしまっているような感じを受けます。だからいちいち音楽は感情的だし、ものすごくシンプルな意味で一音一音に感情が篭っている。こういうのって普通死にかけの黒人のブルースのおっちゃんか、アフリカかどこかの意味不明な民族楽器をありえない高速度で奏でてほがらかな癒し系サウンドをかなで続けるようなおっさんしかできないようなことだと思うのですが、どう考えてもMujika Easelはこういうジャンルレスな音の世界の中で、ある程度の作りこまれた雰囲気こそまとってはいるものの、そういうアクロバティックなことができてしまっている・・。なんというかこのアルバム、「Love & Realism」はそういう意味でほんと奇跡的な1枚だと思います。とにかく、ありとあらゆる音楽に聞き飽きた、と堂々と自称できる方にこそ聴いてほしい音楽です。ジャケットや見た目は堅苦しそうな、いかにもマニアックそうな音楽ですが、聴いてみるときゃりーぱみゅぱみゅよりもずっと聴きやすくて、親しみの持てる音楽だということがわかります!!


※あとこのアルバムは、ジャケットもイイ!!4面見開き(こういう言い方でいいのだろうか・・)で、一度パッカーンと開いたあと、もう一度縦にパッカーンと開くというナイスな仕様になっています。そしてパッカーンと全部開いた右のところに歌詞カードやライナーが、中央にCDがどーんとあるという仕様です。そういう細かいところへのこだわりもグッド!!

※CD、音源は以下のところで買えます!!(ジュリアンレノンのときもこれ書けばよかった・・)

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itunes
Amazon.co.jp
HMV

たぶんこれ以外のところでも買えます!!以上久しぶりの長編レビューでした!


西田辺レコード会会長  つかまるところ

Julian Lennon/Everything Changes

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ジュリアン・レノンは意外と知られていなくて、僕も昔ロッキング・オンかなにかそういう雑誌のコラム特集みたいなページの、「2世ミュージシャン特集」というのでその名前を見なければ、きっと今日まで知ることもなかったと思います。
そんなジュリアン・レノン、もちろん名前の通りジョン・レノンの息子なのですが、オノ・ヨーコの息子かというとそうではなく、そちらはそちらでショーン・レノンという僕的にはどうにもうだつのあがらないマザコンの息子がいます。ジュリアンはジョン・レノンがオノ・ヨーコと結婚する前に結婚していた女の人との間に出来た一人息子です。

そんな出自からしていろいろ人生が波乱万丈のカオスまみれっぽいジュリアン・レノン、もちろんそんな予想通りの人生になって、80年代にデビューするも2ndで大コケ(こんな珍妙なアルバムはそうない、という意味でちょっと貴重な1枚)、3rdでさらに爆コケ、4thで質的に持ち返し5th(前作)でジョン・レノンもなにもかもふくめて場外に打ち返す特大ホームランを放つもどうも思ってたほどウケなかったのか以降沈黙、昨年このアルバムが出るまでなんと13年間アルバムをリリースすることがありませんでした。
そして生来のクズ気質(残念ながらジュリアン・レノンは人格的にはかなりテキトーで終わってる人っぽい気がすごくします。)からか、写真家を気取ったりヘンな会社を買収してあやしい事業に手をだしたりと、思う存分いまだ人生の軸の定まらない2世ミュージシャンっぷりを垂れ流し続けていました。

そして2011年!!
僕は今年もアルバムリリースはないだろうとたかをくくって(リリース自体は2007年からずっとアナウンスされては延長され続けてきた)いたところにこのアルバムにタワレコの店頭で思いっきり激突してしまい、即購入、一聴で完全にノックアウトされてしまったのでした。
いや、正確にはノックアウトされたということにして、
「とりあえずもう一度聴いてみよう・・・いつか。」と思って棚にしまってしまったのでした。

そのときのこのアルバムの印象は、

13年ぶりのアルバムなのに前作とまったく一緒、なんの進歩も感じられないわりに音もまるでAORの有名人がだした何十年ぶりかのスタジオアルバムみたいな時代錯誤もはなはだしい意味不明なプロダクションで徹底的に曲の魅力がオーバープロデュースされてしまっており、前作で聞けた曲のアコースティックな響きの美しさがまったく聴けない、さらに今作は曲のバリエーションも少なくて似たような楽曲が最初から最後までだらだら続く金太郎飴サウンドにしか聞こえない、

というものでした。


し、


しかし!!




去る5月の中旬、長い散歩の折にふとこのアルバムを再生した僕は落雷を受けたかのような衝撃に見舞われました。

なんというみずみずしさ、なんという振り切れたポップソング具合!!
まるで前作でキャリアを1周したジュリアン・レノンがまったく空っぽになった状態から、
1stアルバム以前の「最初の10年」の蓄積に次ぐ、13年の蓄積を経て作り上げた、まったく新しい1stアルバムのようなできばえなのです!!

父親のジョンにあったロックな血脈を一切受け継がず、徹底徹尾ロック以前の、オールディーズのポップ職人的な風情を放つジュリアンの、曲を作って録音することの真骨頂、ともいうべきサウンドが、縦横無尽にはりめぐらされた、ほんとうの箱庭ポップがここにはありました。

もう誰に聴かせる歌でもなくてもいい、俺の作った曲は俺の作った瞬間から俺の作った曲、
俺が完成と思えばそれでその曲は完成できっとその曲はみんなにとっても最高のものだろう・・・

そんな俺俺自己顕示欲大放出シュギの、年季効果による完全完成形の1つがここにはあるのではないでしょうか。
中途半端なメロディの、アレンジだけ工夫星人の新人達が跳梁跋扈する中、
「いいかい、単純に作曲の勉強だけしてれば、これだけいい曲が作れるようになるんだよ。」
というメッセージを、ジョン・レノンの愛だのベトナムだのというメッセージのかわりに発しているかのごときジュリアン。
けれど実はクレジットを観ると、もともとジュリアンってそんなに自分では作曲はしていないという、おそるべき事実。。。
でもここにあるジュリアンの声と、もはやジョン・レノンの全ソロアルバムを越えたといっていい楽曲の品のよさを聴けば、もう世界には酸素とこのCDさえあれば十分、という気分にさえ陥ってしまいます。ほ、ほんとうにこれはすばらしいアルバムだぜ!!


西田辺レコード会 会長 つかまるところ

Mark E Smith &、Ed Blaney。



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名盤・・いわゆる名盤という作品は、いったいどういうタイミングで人生に現れて、その人の以後の人生に呪いのように絶大な影響を及ぼし、そして彼の聴覚器官を通じて脳内に保存され、その人そのものへと血肉化していくのでしょうか。
僕が音楽を聴きはじめて、最初に出会った名盤がなんだったか、残念ながら今の僕にはもう思い出すこともできないのですが、Extremeの「Waiting For The Punchline」で音楽の録音されてる感じの最高のものを聴くことが出来(内容ではなく録音の話)、Jesus & Mary Chainの「Munki」で、この世の中にはわかりにくい音楽をやっていないが故に、その事故みたいな内容に由縁して、ほとんど死ぬまで聴いてもその意味を理解できないような珍妙な異様な音楽のあることを理解してきました。
そしてただ聴くだけ、という誰にでもできる音楽探求活動の一環として(僕が音楽を聴いている理由はただ1つ、なんか世界中の音楽を聴けば1個くらい、自分にとってこの上なく永遠に最高な録音物が見つかるんじゃないか、という予想と、それを死ぬまでに絶対に見つけてやる!というキモチだけで、実はそんなたくさんの音楽を愛しているとか、そういうポテンシャルはもっていなくて、これがダメだからアレを聴いてみようという感じ以外に他の音楽に食指を伸ばす理由は特に持っていません。)
昨年初頭に僕が出会ってしまった、人生史上最大級のホームランがMark E Smithのなんともいえない声芸であり、かれの率いるバンドThe Fallでした。かつて僕が全アルバムを集めるまで執拗にハマったバンドはサザン、U2等、そりゃ集めたくもなるわ、くらい有名でベタで、なおかつすばらしい音楽を維持している職人芸的実力の持ち主たちが主流だったのですがこのThe Fallは何もかもが違いました。僕はこの手のバンドで、これだけ自然体の音楽を、聴いていて気持ち悪くなるような音の塊をつかって、意志ややる気を感じさせない解脱感をともなってできるような、垢抜けたというか、垢抜けていないというか、自分の出す音楽以外に何の興味もなくて、だから永遠にどうなろうと孤高みたいな、生き聖人みたいなグループがあるとは思ってもいませんでした。
ものすごくロッケンロール的な勢い優先の、メロディなんて知らないみたいなリズム主体のバンドサウンドに、おなじくメロディなんか僕は歌えません、というアジテーションのようでアジテーションでない、語り口調でもなければ韻を踏んでいるわけでもない、ラップとして不協和音みたいな誰にもまねできないMark E Smithのボーカル。
そしてそのパターンを維持しつつ、常に変化し続ける万華鏡のような、でも結局同じ万華鏡であることは変わりない、金太郎飴的な音の成長。。。
そのいろんなものに対するやる気のなさを、自分の思うようにコントロールしたバンドサウンドにのせて世の中に発信していく、ロックバンドをやっているというよりは、Mark E Smithが頭の中にあるものを表現するにあたって、このバンドサウンドにボーカルというスタイルがどうもほかのものよりは比較的しっくりこないでもないらしい、という心地よい距離感を動機としているためか、このバンドの音楽はどんなに爆音が鳴っていても、ものすごく耳に心地が良いのです。
The FallのアルバムがCD棚を埋め尽くしていくのにさして時間はかかりませんでした。

そして、今年ついに手に入れたのがこの、Mark E Smithとマネージャー、Ed Blaneyによるソロアルバム。参加メンバーもこの二人だけ、打ち込みサウンドとEd Blaneyによるギターだけを頼りに、宅録感100%で展開されていく、アットホーム、暇つぶし、そんな言葉の似合う、どこにでもあるような音楽をさらにポンコツにしたような、どうしようもない音の塊たち。
Ed Blaneyの歌うどことなくアメリカのフォーク/カントリーっぽい曲や、Velvet Undergroundのカバー、ひたすら繰り返されるピコピコ音に、おなじみのMESのボソボソボーカルが遠くのほうから聴こえてくる、The Fall本隊のどの曲よりもやる気の感じられない、だらけて汚れた感じの音像。JAMCのMunki、リード兄によるLazycameを彷彿とさせる、とにかく即興、宅録、低予算、短時間、無コンセプト、できていったものを1つずつ曲にしていっただけ、という作ったもん勝ち感。
思えばEd BlaneyがThe Fallに在籍していたときのアルバム「Are You Are Missing Winner?」もそういう意味ではそれはそれはヒドいアルバムで、リハーサルを録音して、もうこれで出していいんじゃないかと決断してしまったような、そういう音楽的な作りこみだとか、音へのこだわり、おしゃれ感というものが何も感じられない、殺伐とした作品だったから、おそらくMESはEd Blaneyのそういうハーレーダビッドソン大好き、ロックンロール最高みたいなアホアホアメリカ人っぽいEd Blaneyの感じが面白いと思って、ここで二人でアルバムを作るに至ったのだと思う。
その結果できたものは、そもそも音楽を録音することにそんな意義を感じていない戦前のブルースマンが、なんとなくいつも通り歌っているところをカセットレコーダーでこっそり録音されていた、ばりに空っぽな、録音技術の進歩(家の居間でもアルバムを作れるようになった)の賜物のような、珠玉のドキュメンタリー的アルバムだった。

もう本当にどの曲を再生しても、それは曲というよりそのトラック間に切り取られたレコーディングの1過程、その1過程をレコーディングするとき二人の鳴らしてた音、二人がこの音を鳴らしていたとき、レコーダーの録音ボタンがONになっていた、というような(まあそんな一発録りのアルバムではないようですが、一発録りではないにしろ、編集は一発でおわってそうなダメさ加減です)どこまでもアットホームでプライベートな雰囲気が聴こえてくる。
Ed Blaneyの歌う優等生ギターロックンロールみたいな飾り気のない曲も、アコースティックギターにのせていつもより比較的に「歌っている」といえるMESのボーカルが聴ける曲も、他よりちょっと工夫して音楽っぽくしてるVelvet Undergroundのカバーも、どこかにThe Fall本隊にはないリラックスした雰囲気が漂っていて、それがものすごく心地いい。この心地よさはちょっとすごいと思う。音楽なんてちょっとギターが弾けたらここまでできるものなんだ、という不思議な感動のある1枚。シングル曲「Transfusion」もすばらしいできばえです。

このアルバムがAmazon.ukですら星4つや1つがつけられているというのは本当に信じられない。みんな音楽に何を求めているのだろう・・おそらく今年聴いた音楽のベストになると思うので、いまのうちからゼッサンしまくっておきました。(でたのは2010年です)



お久しぶりです!!

2012年も5月になりました。西田辺レコード会会長のつかまるところです。
FC2のこのブログ、「画像の更新がややこしい」というそれだけの理由のために、
今日まで延々放置していたのですが、サイト自体はまだまだ全然生きていますので、
何か質問やお問い合わせなどあれば、コメント欄にコメントをいただけると幸いです。
なおレコードの寄贈につきましては、現在レコード寄贈用に準備していた収納スペースが
パンパンになってしまっているため、終了とさせていただいております。
なにとぞご理解と協力をおねがいいたします。


さて、せっかく久しぶりにブログを書くので、最近買ったCDのことなんか、
ちょちょっと触れてみようかなと思います。5枚くらい触れてみます!!


まずはこちら!!


The Fall/Live 1977
dfhioas


僕がもうこの上なく、去年一年で間違いなくダントツに一番聴いていたバンド、
The Fallの、結成一年目のライブ盤です。音質は最悪でブート並かそれ以下、
あぶらだこの前進である変態クラブのライブブートを聴いたとき以上の雑音の嵐ですが、
しかしやっぱりこのバンドはどこか圧倒的に無敵な部分があって、そこがすばらしくカッコいい!
とにかくそんな感動雨あられ・・の1枚でした。


5枚紹介、といいましたがよく考えたら最近これしかCD買っていませんでした。
なのでではまた次回、気がむいたときにまたブログを更新したいと思います。
このブログを観てくださっている方、ありがとうございます!
これからも西田辺レコード会をよろしくおねがいします。
アマゾンのレビューはこれからもちょいちょい、書いていくつもりです。



西田辺レコード会会長 つかまるところ
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